昭和五十四年十一月二十八日 朝の御理解

 御理解第十九節 「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」


 金光大神の御徳というのは霊の世界に入られても、天地金乃神と同根とまで天地の神様から言われておいでるのでございますから、そういう、ま、天駆けり国駆けりのおかげを頂かれる、御徳を受けておられる、という事は金光様と唱えれば、そこに金光大神取次の働きが頂ける、という事であって、おかげは何処までも天地金乃神様が下さるんですよね。
 金光大神が下さるのじゃない。金光大神がお取次をして下さるのである。何処ででもいつでも金光大神、と唱える所に、いうならば時間空間というもののない、いうならそういう世界、そういう働きがある、という事です、ね。だからおかげを受ける、という事は天地金乃神様がおかげを下さる。お取次をして下さる、という事だけなんです。
 そこで常日頃金光大神と言えば、そこにお取次をして下さる、んならここでもそうでしょう、ね。金光大神のお取次を、例えばんなら頂きます、と言うて、ならおかげは和賀心でしょうが。「心一つで総てを創る」とおっしゃるように、何処までも何処までも求め給うのは、天地金乃神様の御心を御心とする、いうならば天の心地の心、というような勉強が常日頃出来て、そして金光大神唱える所に金光大神の取次の働きが生まれてくる。
 そこには信心が不完全であっても、お粗末御無礼があっても、金光大神のお取次の働きというものが、まあいうならば役場に行って、いろんな書類を提出します。ところが一字抜けておっても判の押し方が違っておっても、訂正しなければ向こうに通じないように、金光大神取次の働きというのは、そういう働きの事だと思う、ね。私共が神様に直接お願いしたところで、ね。やはり神様には神様の一つの法則というものがある、掟というものがある。
 そこんところを、例えば法則を違えておっても、間違えておっても金光大神が訂正をして提出をして下さる。提出をして下さったから、全部向こうが受けつける、という事じゃないのです。願いを聞いてくれる、という事じゃないです、ね。書類だけ受けつけられたけれども、それがなら、こちらの思う通りになる、という事がないのと理屈は同じです。
 だからおかげを受けるという事はです。そういう取次の手数手数、というものを、が、して下さって直接じゃない、天地金乃神様の、に、それを取り次いで下さっても、ならおいそれと、おかげを下さらない事もあるわけです。それはなら、私共が日々お取次を頂いてお願いをするけれども、そのお願いが成就、思う通りには成就しない、といったような事がございます。
 けども段々段々おかげを頂いてね、その辺の所の、が、わかり、いうならば心一つで助かるんだ、と、いよいよ心を芯にして、ね。日々の改まりの上にも信心辛抱の上にも、ね。本心の玉を磨く事の上にも段々稽古が出来てくる。
 昨日一昨日でした。久富先生が改まってここに御礼に出て見えられました。というのは、あちらのもう椛目の時代ですからね。小児麻痺でね、あらゆる手当はしたけれども、駄目だ、と言われて、そして当時の椛目に参って見えて、いわゆる奥さんが連れて参って見えまして、その自分な一人一人お願いの後、御祈念をさしてもらいます。
 それで御祈念をさして頂いて立ち上がって、狭いお広前ですから、立って行って親子が、そこに並んでおるその子供の肩をおかげ頂いかなければいけないね、と言うて肩を叩いた途端から手が上がったんです。手が小さくて、も、ブラッと下がっとっただけでした。以来おかげで手が上がる。ま、ちょっとした事なら、その出来る、と。力のいらん仕事なら出来る、と。だから変な手つきをしてました。それが昨日一昨日久富先生がお届けをなさいますのにね。
 本当に私共夫婦でびっくりしとります、というわけです。も、この娘は、も、いよいよどこにも貰い手がなかろう、と思いよったけれども、大変いい所に福岡ですかね、博多の方ですか。もうとても主人も家も大変立派な家の方ですが、安藤さんの仲人であちらへ結婚しまして、子供も出来ました。
 で、先日帰って来てから、いろいろ炊事をしたり子供をいろいろ見ておるのがですね、もう普通者といっちょん変わらんこと動かしよるそうですたい。もう夫婦の者がびっくりしてから、もう兎に角早う御礼を申し上げてくれと言うて、その、本人はおかげ頂いたとも何とも言わんのだけども、両親が見てから一様にこうやって手を動かしとるのを見て、たまがって御礼に出て来られた、という事です、ね。
 いうならば二十年…三十年近くかかっとるです。手が上がるごつなった、と、いうのはもうその時からだったけど、なら本当に使えるような小児麻痺の人が良うなったのは、いうなら三十年経ってから今日おかげを頂いとる、ね。お取次の働きというものはね、そんなもんです。神様にも御都合があるのです。
 だから、如何に金光大神が、ね。形がのうなったら金光大神と唱えるところに行ってやる、とおっしゃっても、それはお取次をして下さる、という事だけなんだ。そしてその、こちらの願いがまちごうておったら、それを正して訂正をして神様に出して下さるから、神様に間違いなく届いておるという事がわかるでしょうが。
けれども、まあ普通でいうなら、下積みになっとった、という  かね、書類が、といったような事が現実ではありますけれども、何か神様の御都合であって、おいそれとおかげを下さってはないけども、三十年後に、そういうおかげを受けておる、という事実から見てもね。神様には神様の御都合がある、という事。
 そこでそれをおかげを受けられる、いうならば姿勢、というものが段々出来てくる。いうならばおかげを受けられる姿勢が久富一家の上に出来られた、という事になります、ね。それは時間も空間もない、あっという間の、いうなら神様の働きなのですけれども、ね。来て下さってお取次を願ったから、と言うておかげを頂く、という事ではない。
 それは何十年後に、そういうおかげが実際に現れてくる、という事実をです、ま、思います時に、そんならその受け物を作る、ということ。お取次を願って、その受け物を作る、という事に一生懸命にならなきゃいけない、という事がわかります。ね。そのおかげの受け物を一生懸命作る、という事が、なら今、合楽で言われる合楽理念をもってすると、楽しう有難くしかも愉快に、その受け物づくりの、いうならば信心修行が出来る、という事でございます。
 先日、私の方の幹三郎、三番目の息子ですけども、ある先生から、あなたの所はあんまり合楽合楽と言い過ぎんなさる、と言われたそうです。ね。ならどげん言うたなら言いでしょうか、ち言うたら、教祖様教祖様ち、言わなでけんと教えられたそうです。ね。ここでは合楽教会という合楽の地名、いうなら合楽の宣伝じゃない。金光大神の本当のおかげの真髄というのは、私共がおかげを受けるだけではなくて、神様と一緒に喜び合いながら現れてくるおかげが金光教の信心の真髄です。ね。
 いうなら昨日の御理解の中に、井上さん所のお祖母ちゃんの霊様のお話をさせて頂いたが、いうならば霊様ですら、というとどうかですけども、霊様でもね。やはり、いうなら極楽におられるけども、極楽におっただけじゃいかん。少しはましな、いうなら神様に喜んで頂くような霊としての働きが出来るような、ね、霊にならなきゃならん、と言うて蝶々が蜂になったお知らせを聞いてもらったね、昨日。
 蜂は、もう花から花へ飛んで行くのじゃない。花から花へ飛んで行っても、それは蜜を蓄える為なんです、ね。だから私共でもそうです。ただお参りしとります。おかげ頂きよります、だけじゃなくて、少しはましな、ね。合楽の信心をさして頂いて神様にも喜んで頂くような、ね。合楽示現活動にも参画さしてもらおう、ね。合楽理念の実験実証をいよいよ日々させて頂こう、というようにです、ね。意欲が生まれて来なきゃならん、ね。
ただ自分の事、自分一家の事だけを、ただ一心不乱に願う、と  いうだけではです、ね。神様は間違いなし聞いては下さっても、金光大神がお取次して下さっても、ならおいそれ、おかげの頂けない、ま、今やるわけにはいかん、という事もある、という事なのです、ね。だからその間を、私共がじっとしとるのじゃなくて、いよいよ自分の信心が一段一段と進んで行く事の為の信心修行に取り組まなければ、それを合楽理念、そういうふうに合楽理念、合楽、合楽とこう言うから、ま、耳障りになったんでしょう。
 あれを言う人は合楽に、ある意味で反発にもっておる人が、合楽という言葉が非常に気障りになるらしいですね。耳障りになるんです、ね。けどもそげなふうに言われると、なお言おごつなるの、と、ま、言うた事でしたけれどもね。言うな、といや、なお言いたい。合楽の場合はどんな方が何と言うても、これは合楽という事。合楽の地名の事ではない。
 いつも頂きますように神様と私共との間に拝み合う、合楽し合えれる。その喜びがそのまま産みなす働きになってくる、と言うのですから、もう言わんわけにはいかん。合楽理念と言うてもです、ね。御本部のある偉い先生に、その事をわざわざ私が御本部に参った時に、私を尋ねて下さった先生に、その当時から合楽合楽という事がいろいろな反発があって、とこう申しましたら、これは先生やっぱし合楽理念の合楽は他の事に変えるわけにはいかん。これはやっぱし合楽理念でなからないけませんよ、と。
 私も、そう信じとるけども、いろんないうならまあ、その為に評判が悪い、から、ま、これに匹敵するような表現がないだろうか、と思うけども、こんなぴったりした合楽という表現ぐらい素晴らしい表現はない事がわかったんです。それでどうしても合楽合楽が出てくるわけ、ね。
 そしてどんどんおかげを頂くもんじゃけん、やっぱそねみ心でしょうね。あなた方は合楽合楽ち言いすぎる、ち。言わんがえゝ、ち。ならどげん言うたならよかの、ち。教祖様教祖様ち言わなん、ち。それは教祖様教祖様、ち。根本は教祖様なのですからね。まあ、それとこれとは意味が違うようですけれども、ね。
 それからこれは二、三日前です。田主丸教会の記念祭がありました。光昭が代りに参りました。そしたら、ちょっと時間早よ行ったから講師の先生が早く見えておって、夫婦で、もうお茶を頂きながら話した。先生どちらですか、と言われるから合楽ち言うたら、もう途端に興味を示されて、実は広島の方から、も、七十位のおじいさんの先生が講師に見えたんだそうですけども、もう本当に合楽の事を聞きたがられる。
 して実は、今度あちらの連合会で、皆で合楽におかげを頂こう、という話が出たんだそうです。あちらの広島の青年教師の方達が四、五人ここに研修に来た事がございます。そんな事で、じゃなくても合楽の事は、こう非常に、いわゆる皆が関心をもってるわけ。だから今度の研修はどうでも、その合楽教会に行こう、という事になっておった。ところが日本海側の方の温泉のある所に、で実習をする、という二つの案が出た。
 そこでそんなら合楽がよか、ち言うもんがおる。いや温泉がよか、ち言う者がおるから、ならみんな投票しょう、と。も、一点差で合楽に行く事が出来ませんでしたから、来年はどうでも行きます、と言うておられた、と。そしてお説教の中にも、その話をなさった、という事を光昭から昨日聞きました。ね。
 だから関心を持つと言うても、その合楽にある意味での、よい意味で持っておる人は、ですけども、反対の方を持っておる人、合楽がもう合楽合楽と言い過ぎる、といったような事になりますけれども、私は、その事を聞かせて頂いて、私も、そう今いったような思いにちょっとかられました。『そしたら神様から、御心眼にね、「天照」という焼酎がありましょうが、宮崎かどっかに、テレビでしよりますよ。
あのテレビのレッテルを頂いた。天照と、ね。いうならば神様  が覧てござる、聞いてござる、というふうにここでは申しますね。天地が照覧し給うておるという事なんです。人がどんなに、どう言うても、ね。私の心の中には、神様が御承知の世界に生き抜く事が信心だ。人が何と言うても、いうならば、私の神情を曲げるわけにはいかん。人情にするわけにはいかん。』
 そんなら、合楽理念とか何とか言わんようにする、という事は出来ない。それは誰が何と言うても、私の信心を曲げるわけにはいけない、という事になる。『次には天吹きのもう、天吹きのもう、という心耳が響いてきた。天吹きというのは佐賀に天吹きという酒があるんです。その宣伝をテレビでやってるです。ね。
 その私共が信心修行さしてもろうて、も、兎に角おかげは心次第だ、という事になってきたらです。例えば人が何と言うても、神様御照覧の中に、神様御承知の世界で生き抜いておるんだ、という、いうなら信心修行をさしてもろうてです。いつも天吹きを飲む。それこそ天つ風というか、ね。いうなら神様の、いうならばいつも息吹を心に感じておる、というような信心をさして頂かなければ、いうならば天地のリズムは響いてこん、ね。
 そういう心の状態を、いうならば作って行きながら、私共が願いをさしてもらう、金光大神を唱えさして貰う、金光大神が即刻、その場でお取次をして下さる。そしておかげもいわば、日頃のそういう受け物を作っておりますから、いうなら簡単に受けられる、というような事にもなるわけですよね。』
 昨日は鳥栖の上野さん所の一番下の、自衛隊に、今は大変に偉いとになっとります。昨日写真を持ってきとりましたが、もう何か、何百人の、何ち言うですかね、何か。ま、兎に角素晴らしい、そのおかげを頂いとるんです。その人の嫁ごが、具合が悪いから医者にかかったところが、頭に腫瘍が出来とる、という事。それを手術する、という事は六時間もかかる、ち。
 ま、大変な手術らしい。しかも危険の伴う手術らしいんです。と、いうのでお届けがしてございました。昨日が、いよいよその手術の日でしたから、もう朝から、あそこのばばしゃまも、それから娘達もみんな、嫁行っとるとがみんな来ました。椛目からも愛子が来とりました。義理の姉妹になりますからね。
 それで一日ここで御祈念さして頂いて、あのう丁度研修が終わってからでしたでしょうか。『椛目から妹が特別また改まって、その事のお届けにまいりました。それを私が神様にお供えさして頂いて、お取次さして頂いたら、果物籠をお供えをする、あれに「柿がいっぱい盛ってある」ところを頂いたです。
 しかもその柿がね、「富有柿もあれば、とんぼし柿もありゃ、普通の柿もある。それから今頃はないでしょうけども、ガラガラ柿というのがある。こまい柿の。も、柿の種類の全部というぐらい柿だけで一台を作って、そのままお三宝にお供えしてよい、というように盛り上げてあるところ」を頂いたんです。
 これはね、一心というてもね。例えば一人の、一人じゃなくて、みんなの一心。柿という字を書いて見てごらん。木偏に市という字が書いてあるでしょう。心を一つにして、しかもガラガラ柿もありゃ富有柿もありゃいろんな、しぶ柿のごたっともあったかも知れませんよね。いろいろ様々な柿の、みんなの一心の祈り。一心を一つにした祈りだから、神様が、いうならお供えをする、受けるという事になるのじゃないでしょうか、ね。皆さんがお取次を頂いてお願いをする、というてもです。』
 だから常日頃、なら皆が一家親類に至るまで信心を頂いとりますから、それが出来るんです、ね。これは本当に大事な事ですばい。何かどうでも特別のお願いをする時には、本当に一家中の者が、それも信心の日頃稽古しとる者が一つに集まって、それを祈る、お取次を願う、いう時にです、ね。
 これは神様が、いうならばもう、それを受けなさらなければならないような働きが、そこに起きてくる、という事がわかります。今日は皆さん、ね、金光大神は形がのうなったら来てくれという所に行ってやる、とこうおっしゃるが、ね。それは確かに来て下さる。ど、から金光大神を唱えてもいい、ね。合楽様と言うてもいい。親先生と言うてもいい。
 その合楽様でも親先生でも金光大神と、いつも、それこそ教祖様教祖様が、心の中にあっての事ですから、同じ働きが生まれてくるんです。ここで皆さんが言うでしょう。金光様という前に、親先生、と言うた方が早か、という。そりゃ早かです、やっぱり、ね。それだけ親先生との中に日頃交流が出来ておる。信じ信じられておる、というものが確かに現れてくる。
 親先生、という事は、だから金光大神というのと理屈は同じなんです、ね。確かに、来てくれという所へ行ってやる、と言われるが、ならもうその時に、金光大神がおかげを持って来てやんなさる、という意味ではない事を、今日は聞いて頂いたんです、ね。
 取次いではくださっても、それが、久富先生方のごと三十年目におかげを頂いた、というような事になっておるんですからね。だから直ぐおかげ下さる、という事とは繋がらない、ということ。おかげはやはり常日頃私共が、ね、金光様を唱えたら、直ぐおかげが頂けるような信心の稽古を、本気でしておかなければならんという事でございます。どうぞ